梁小学校のある地域は小山市の東端にあります。この地域は、明治22年の町村制が施行されるまでは絹村、
     その後の昭和31年には隣接する桑村と統合され桑絹村になりました。その後、昭和40年に小山市に合併され
     ました。絹村は名前の通り、ほとんどの家で農家の副業として機織り(絹織物が中心)をしていました。この絹織
     物は「結城紬」として有名ですが、結城紬の半分以上を絹村で生産していたこともあったようです。現在では
     機織りをしている家はほとんどなくなってきてしまいましたが、家が繭の生産や機織りをしている、結城紬に関係
     しているという児童も数名います。

梁小の名前の由来

かつて学校の西を流れる田川には、魚を獲るためのたくさんの梁がかけられていたそうです。現在も田川に沿っ
た地域に、上梁・西梁・下梁などの「梁」の地番が残っています。また、かつては梁村と呼ばれていましたので、
このあたりから、梁小学校の名前が付いたものと思われます。

「小山市史」によると、下記のような説明が記されています。

   
 「下都賀郡統計書」から、明治期に川で魚をとって生活していた人々についての人数を知ることができる。
   絹村で漁業者が多かったのは、絹村の東端を鬼怒川が南流していることと、同村内を田川が流れていることに
   よる。明治44年の「絹村郷土誌」には、「鬼怒川・田川ともに漁業の利あり、田川はうなぎ・なまず、鬼怒
   川はあゆ・さけ等その名高し」


と記されている。

寺野東遺跡

教科書の縄文時代の記述を書き換えるほどの貴重な遺跡です。縄文時代の水場遺構、環状盛土遺構、木組
遺構、石敷台状遺構などが再現されています。
寺野東遺跡について(カメラリポート)

絹地区の産業

絹地区は農業が中心の地域です。そのほとんどが兼業農家です。梁小児童の家でも専業農家は1・2軒です。
学校の周辺は、水田が中心で米とビール麦の二毛作が行われています。畑では、イチゴのハウスや大豆畑が
目に付きます。
また、桑畑も少しですが見られます。繭の生産や結城紬に関わっている家が児童の中にも数軒ありますが、最
近では需要が減り、勤めに出ている方がほとんどになってしまったようです。
1 結城紬について(カメラリポート)
2 農 業 

トップへ

ホームへ