寺野東遺跡は、平成2年(1990)から6年(1994)まで行われた発掘調査により、旧石器時代から平安時代までのムラや墓地であったことがわかりました。この発掘調査の結果、最も注目された縄文時代の様子について紹介します。
まず、縄文時代中期前半から後半(4,600年〜4,300年前)に、東側の台地に径約190mの範囲の大きなムラが営まれました。竪穴住居跡74軒と、木の実などを貯えた袋状土坑がたくさん見つかりました。
後期初頭(4,000年前)になると、ムラの規模は小さくなり、やや低いところに営まれるようになりました。このころに、水場遺構がつくられます。木の実のアク抜きを目的とした、水さらしの施設が見つかったことにより、後期には谷の水を積極的に利用し始めたことがわかります。後期前半〜後半(3,800〜3,000年前)になると、ムラはおもに谷の西側に営まれます。
東側には、関東地方では始めて確認された、巨大な環状盛土遺構がつくられます。これは、後期前半から晩期前半までの、とても長い間続けられたものです。また、谷の小川から見つかった木組遺構は、多くが後期後半から晩期にかけてつくられたものです。
晩期(3,000〜2,300年前)のムラは、環状盛土遺構内側のけぜられた部分に営まれたようです。また、小川の中には、ひときわ大きな木組遺構がつくられました。大型の木組遺構は、トチの実のアクを取りのぞくための組織と考えられます。このように、寺野東遺跡は、縄文時代の中期から晩期までのムラの移り変わりや、ムラと水を利用した施設との関係を知るうえで重要な遺跡です。 |
<田川の東側北から臨む>
<田川の東側南から臨む>
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解説板2
水場遺構 |
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縄文時代の寺野遺跡には、幅10〜15mの小川が流れていました。しかし、水量が少なかったため、水を引き込む施設をつくりました。小川の斜面を大きく削り込み、水をひき込む場所と平らな作業スペースを設けました。これが、水場遺構で、縄文時代後期初頭(4,000年前)につくられました。
水場遺構は、幅約12m、奥行き約17mで、「U」の字状に小川から掘り込まれています。この掘り込みの上部には、幅約30cm、深さ20〜30mの溝が、「U」字状の掘り込みを囲むように掘られています。
溝は、斜面の上から土砂や雨水などが、作業場に直接流れ込むのを防ぐための工夫と考えられます。
また、水ぎわには、杭の跡と思われる小さな穴が並んだ状態で見つかっています。この穴の周りや小川からは、クルミなどの種がたくさん見つかっています。これは、この場所で食べ物を調理したときの残りものかもしれません。 |
<画面奥には水場遺構がある>
<水場遺構の様子>
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解説板3
木組遺構 |
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縄文時代の寺野東遺構には、幅10〜15mの小川が流れていました。はじまりは環状盛土遺構の北西部にある湧水点で、この解説版のほぼ真下を流れて、水場遺構へ続いていました。木組遺構は水利用のために作られたものです。
縄文時代後半〜晩期中ごろ(3,000年〜2,500年前)の木組遺構は14基みつかりました。
木組遺構には、いくつかの形があります。
木組遺構@は、正方形の木枠を中心にして、まわりに木や小石を敷きならべたものです。
木組遺構Aは、正方形の木枠を川底につくったものです。
木組遺構Bは、長さ14.5m×幅4.6mの長方形の木枠を川底につくり、この中に仕切りを設けたもので、寺野東遺跡では最大のものです。木組の枠の内側には、押さえのための杭がたくさん打ち込まれており、一部には板材も敷かれていました。
木組遺構Cは、川底よりも少し上の斜面に穴を掘り、穴から川底にむけて木を敷き並べたものです。これらの木組遺構は、環状盛土遺構の盛土ブロックが途切れる2か所の窪みの近くに集中してつくられています。
木組遺構の木材の90%は、クリの木が使われています。木組遺構の内側や周りからは、トチの実などの植物の種や皮がたくさんみつかっています。このことから、木組機構は、木の実のアクを抜くための、水さらしの施設であったと考えられます。縄文時代の小川から、水を利用した施設がこれほどまとまって発見された例は、全国でも寺野東遺跡だけです。ここで見つかった木組遺構は、縄文時代の水利用の方法や、当時の食生活を知るための貴重な資料なのです。 |
<解説板のパネル写真から>
<解説板のパネル写真から>
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解説板4
環状盛土遺構 |
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環状盛土遺構は、南北約165m、幅15〜30mの半円形の盛土部分と、その内側のくぼんだ部分からなっています。もとは円形であったと思われますが、その後の河川の浸食や用水の掘削により、東側半分は削られてしまいました。
環状盛土遺構は、縄文時代後期後半(3,800年前)から晩期前半(2,800年前)にかけて、ドーナツ状に土を盛り上げてつくったものです。
盛土に使われたのは内側を削った土で、その量は大型トラック約1,500台分と考えられます。盛土の内側は、土を削り取ったため、皿上に窪んでいます。盛土の高さは、最も高いところで約2mです。盛土は現在、4つの部分が残っており、それぞれの間は途切れています。盛土の中やその下からは、住居跡や埋甕(子どものお墓)もみつかりました。そのほかにも、土偶や耳飾り、石剣・石棒などとともに、たくさんの土器片や石器が出てきました。さらに、イノシシ・シカ・魚・鳥の骨片、焼けた土や炭も出土しています。なぜ盛土がつくられたのか、今のところよくわかっていません。長年にわたって、家を建てる場所を平らにして残土や、家が壊れた跡に土器のかけらなどを捨てながら、土を盛り続けたのかもしれません。 |
<画面手前から中央、左側へと
環状盛土遺構は続いています> |
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解説板5
石敷台状遺構 |
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環状盛土遺構の内側の、中心から少し北に寄ったところに、長軸22m、短軸17mの楕円形の高まりがあります。
この高まりは石を敷いた部分があるので、石敷台状遺構とよんでいます。
石敷台状遺構の周りは、盛土をつくるために土が削られましたが、ここだけは意図的に残されました。その結果、現在のような高まりになったと考えられます。
石敷に使われた川原石の大きさは、径10〜20cmくらいのものです。石敷は全面ではなく、いくつかの部分に集中して敷かれたようです。
この遺構からの出土遺物は少なく、縄文時代後期〜晩期の土器片と、石剣4点、土偶1点がみつかっているだけで、この遺構がどのような目的でつくられたのかよくわかっていません。しかし、長い間つくられ続けたことや石が敷かれたことなどから、環状盛土遺構のなかで、とくに重要な場所であったと考えられます。
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<コンクリートで作ってあり、石の並べ方にも
意味がありそうです。>
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詳しくは、現地を訪れてください。 |
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